生き方・ライフスタイル書評

タオを生きる by バイロン・ケイティ — 人生の不安と苦しみがすべて消える 4つの質問

生き方・ライフスタイル書評
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「今ココ」を見ると僕たちは解放され始める

思ってもみなかった災難が振りかかるときもある。

たとえば留守中の家に泥棒が入ったする。

僕を含め多くの人は泥棒が入ったという事実を呪い、物が盗まれたことに対して怒り、自分に起こった災難を受け入れられず、絶望する。

しかし、「泥棒なんて入るべきではなかった」とどんなに事実を呪ったところで、僕らは幸せになることはできない。

実際は「泥棒は入るべきだった」のだ。なぜなら、実際に泥棒が入ったのだから。

盗まれた物は、必要ではないものだったのだ。なぜなら、実際になくなったのだから。

もちろんこの考えは、泥棒を奨励しているものではないし、泥棒が入ったら警察を呼び、所定の手続きは行うべきだ。

だが、僕たちが幸せになるためには、「泥棒は入るべきではない」と事実と異なるストーリーを描いて嘆き苦しむことは、得策ではないのだ。

実際にバイロン・ケイティさんの自宅に泥棒が入ったときのエピソードが本書で紹介されている。

一部を引用しよう。

ある時、私が旅を終えて家に帰り、ドアを開けると、家はもぬけの殻。泥棒が入って、私のお金や宝石、テレビ、ステレオ、CDのコレクション、電化製品、コンピュータを持ち去ってしまったのです。

私は部屋を見て回り、あれもこれもなくなったのを確認しました。ただし喪失感や侵害された感じはなく、逆に私は彼らのことを想像し、これらの物がどのような喜びを与えるだろうかと感じました。もしかしたら宝石を妻や恋人にあげるかもしれないし、質屋に売って得たお金で子供たちに食べさせるかもしれない。

私は感謝の気持ちで満たされます。この気持ちは、それぞれの物を明らかに必要としないことからきます。私が必要としないことがどうして分かるかというと、なくなったからです。私の人生にそれがない方がなぜよいかというと、簡単です。今の人生の方がシンプルだからです。そうした物は今、泥棒が持っているのであり、彼らは明らかに私よりもそれらを必要としていたのです。宇宙はそのように働くのです。

もちろん僕たちは泥棒が入らないように、戸締まりを厳重にすることはできる。セキュリティー会社に依頼することもできる。

そういった努力をするべきでないと言っているのでは決してない。

ただ、現実問題として、すでに泥棒が入ったあとで、どんなにその事実を呪い怒ったところで、問題は永遠に解決しない。

「泥棒は入るべきではなかった」というのは、過去のさかのぼって自分の中の「ストーリー」に執着することだ。

そうではなく、「イマココ」を見れば、「その家は、禅風のすっきりした感じでした」という、バイロン・ケイティさんの感想に行き着くのだ。

これは「強がり」や「見栄」で平然を装いなさい、ということではない。

自分のストーリーが事実から離れないようにして、今ココのリアリティー、実際に起こっていることを徹底的に愛しなさい、という教えである。

そう簡単にできることではない。これはほとんど悟りの世界である。

でも、進むべき道ははっきりしている。

徹底的に現実を愛し、ストーリーを捨てること。

これだけだ。

 

徹底的に現実を受け入れ愛することで僕たちは真の意味で自由になれる

僕たちは幸せになることを望んでいる。

しかしその幸せを物質的、経済的に他人と比較することで、僕たちは不幸せになる。

「お金が十分ではない」と感じるのは、誰か他人と自分を比べて「もっとあるべきなのにない」というストーリーを描いたたために生まれる苦しみだ。

「私は隣の夫婦が乗っている高級車と同じ車を買えるだけ十分にはお金がない」と考えるとき、あなたは不幸だ。

だが、自動車を買えるだけのお金がないのならば、そもそもあなたは自動車を買うべきではないのだ。

なぜなら、買えるだけのお金がないというのが事実だからだ。

そうすると、そもそも「私は隣の夫婦と同じ車に乗るべきだ」という考えも、ただのストーリーにすぎないことが分かってくる。

そもそも、お金は「ない」という状態はなく、必ず「ある」のだ。

「お金があるから、車を買う」というマインドなら、あなたはもう不幸ではない。

そして、「買った車に乗って満足する」「買った車を大切にする」のは、事実を受け入れ、愛している状態だ。

「隣の高級車と同じじゃないと不満だ」というストーリーを手放すことで、あなたは本当の意味で自由になれる。

電車が遅れたときに腹が立つのは、「電車は時刻通りに運転されるべきだ」というあなたのストーリーがあなたを不幸にしているだけだ。

電車が遅れたのは事実であり、その電車は遅れるべきだったのだ。なぜなら、遅れるべきだったからこそ電車は遅れたのだから。

その事実を受け入れ愛してみよう。

受け入れるフリをするのではなく、本当に心から受け入れ、そしてその事実を愛するのだ。

それは簡単なことではない。

バイロン・ケイティさんは、家族の思い掛けない突然の死さえも、拒絶せず受け入れ、そして「死ぬべきだった」と結論づけ、その死を祝福し、愛している。

これはまさに本書のタイトル「タオ(道)を生きる」、生きながら悟ることなのだと思う。

家族の死のような大きなことは受け入れられなくても、小さな日常の怒り、ストレス、不安から、自分を解放する訓練をしていってはどうだろうか。

 

まとめ

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僕たちは本当にしょっちゅう、過去と未来を往復して、そして他人を裁き自分を貶めて、苦しみ、怒り、悲しみ、そして絶望している。

それらの苦しみは、すべて自分の中で勝手に描いた「ストーリー」が生んだものだ。

ストーリーから脱出して「現実」「事実」を受け入れることで、僕たちは囚われから解放され、少しずつ楽に、優しく、そして自由になっていく。

バイロン・ケイティさんは両目の病気で視力が失われる可能性があったときも、「目が見えない世界をワクワクしている」と書いている。

どんなに「目が見えなくなるなんてイヤだ!見えなくなるべきではない!」と怖れても、どんなに拒否しても、どんなに怒って絶望しても、そのストーリーは彼女を幸せにしないことを彼女は知っているのだ。

だから、淡々と現実を受け入れ、そしてその現実を徹底的に愛するのだ。

そこにはもう不安も絶望もなく、あるのは自由と穏やかな幸せだけなのだ。

「毎晩眠るのを楽しみにしている人は多いのに、死を怖れる人が多いのはなぜか」

この言葉を読んだとき、僕はハッとした。

眠るのが怖くないのに死ぬのが怖いのは、他者の死に触れた自分が描いた「ストーリー」にすぎない。

眠るときも意識はなくなるのに怖くないのは、「今まで目覚めてきた」という過去と「翌朝も目覚めるだろう」という未来を連結して安心しているだけだ。

死ぬときも意識が途切れることは一緒。

だったらその事実を愛するだけ。

死の観念が、ちょっと変わった瞬間だった。

バイロン・ケイティさん、本当に凄い人だ。

書評では彼女のすごさを十分には伝えきれない。

ぜひ本書を手に取ってみて欲しい。

なんども読み返したい、本当に素晴らしい一冊。

おすすめです。

 

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