エッセイ

ふと感じる「遠くにきた」感 [エッセイ]

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ここ数日、ふとした瞬間に、自分がすごく遠い場所にやってきたと感じる。

鎌倉に定住して1年以上たち、日に日に東京が遠くなっていく感覚は以前から持っていた。

用事や会食がある時はもちろん出かけるが、最近は用事がないと出かけることがなくなってきた。

以前はずっと鎌倉にいると退屈してきて、東京が恋しくて用事がなくても出かけていたのに。

最近は事前に用事がなければ敢えて出掛けない場所になりつつある。

でも、鎌倉に愛着を持ち、鎌倉にずっといる癖に、鎌倉にいる自分に対する違和感もいまだに感じるのだ。

そんなときに「ずいぶん遠くに来たなぁ」と思うのかもしれない。

今朝は台風一過の快晴のお天気で、目覚めてすぐ水着に着替えて海に出た。

材木座テラスの建物の上に真っ青な空がクリアに見えたとき。

「ああ、なんか僕はすごく遠いところにいるんだな」という感覚に包まれた。

ポジティブでもネガティブでもないけれど、敢えて言うなら微かに切なさを帯びていたかもしれない。

一人で鎌倉に定住して1年以上がたったので、当たり前だけど去年の今ごろの写真を見ても、鎌倉の写真がほとんどだ。

去年と今年の写真を見比べていて一番違うのは、大好きだったPOSTがなくなったため、POSTの写真がないことと、あとは東京に行っている回数去年より大幅に少ないこと。

鎌倉が自分の地元として定着しつつあると感じるいっぽうで、東京から、そして東京に住む多くの仲間や友達から遠く離れているという感覚。

そして自分がいる場所が、本当の自分の場所ではないような感覚もふと感じることがある。

でも鎌倉の特に海街にはとても愛着を感じていたりもする。

変化のときなのだろう。

それは自覚している。

7月までは一年前の写真がFacebookなどで上がってくると、そこには幻のように消えた六本木や麻布での生活があった。

それを見ることは懐かしと同時に痛みも僕に与えていたが、それらの古い生活もだいぶ遠い場所へと行き、色が褪せ始めている。

そうだ、僕はいま新しい生活、新しい人生を歩き始める境界線にいるのだろう。

立ち止まっていた時間が終わり、新しい時間の中を生き始めた僕が、いままた変化しようとしている。

そのさなかでふと、自分のアイデンティティや成り立ちに、戸惑いを感じている。

そんな時間なのかもしれない。

無我夢中のときにはこんなことを感じている暇もないわけだから。

ちょっとしたエアポケットみたいな時間と感覚を楽しんでおこうと思う。

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