メッセージ

生と死と

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僕たちはいまこの瞬間、生きている。

この世界に肉体と感情を持ち、存在している。

でも、僕たち一人ひとり全員が、生まれた瞬間から、一人残らず、「死」の瞬間に向かって歩き続けている。

120年前も東京は同じように人で溢れ、同じ町の同じ道をたくさんの人が歩いていた。

しかし、その日と同じ町の同じ道を、120年前と同じように今日も歩いている人は、もう一人もいない。

町の名前、橋の名前、道の名前は残り、でも僕たちの命は次々と飛び立ち、消えていく。

死とは、誰一人として避けて通ることができない、圧倒的なもの。

でもそれは、行き止まりでもないし、絶望でもない。

最近僕はそう感じるようになった。

4年半前に祖母の旅立ちを見送るまで、僕にとって「死」とは「生」の対極にあるもので、忌み嫌い、遠ざけ、避けるべきものだった。

自分の命はできる限り永遠に存在し続けて欲しいと思っていたし、僕が大切に想う人たちの命も、永遠であって欲しいと願っていた。

でも、祖母が旅立つ姿を、母と二人で祖母の両手を握りながら見届けたとき、僕の生死感は大きく変わった。

「生」とは「死」の対極にある、忌み嫌うべきものではなく。

「死」すらもが「生」の一部として、含有されたもの。

「生」とは圧倒的に存在し続けるものであり、「死」というのは、その中に組み込まれたプロセスの一つにすぎない。

そう想うようになった。

生身の身体は、長く使っていれば傷んでくるし、古くなる。

あちこちにガタがくるし、病気も出てくるだろう。

でも、人の「魂」は何歳になっても古くなることもないし、傷むこともない。

むしろ、魂は、年齢を重ねるほど修業を積み、研ぎ澄まされ、美しく昇華していくもの。

そんな磨かれ円熟味を帯びた魂からすると、古くてボロがきた身体はもう不釣り合いというか、不自由になってくるもの。

そして、しかるべきタイミングがきたとき、人は自らの肉体を離れ、自由に飛び回れる形に羽化するのだ。

祖母を見送った瞬間、僕は100歳の肉体を離れ、ふわりと飛び立つ祖母の魂が見えたように感じた。

そして、それ以来いつも常に、祖母は僕のそばにいてくれると感じている。

この世界に存在していたとき以上にずっと親密に温かく、優しく、祖母はいつも僕を見守ってくれていると体感している。

それ以来、僕は人間の死というものに対する認識が180度転換した。

人間が何歳まで生きるか、いつ死ぬかは誰にも決めることができない。

それはまさに「神の領域」のことだ。

でも、死とは人生の行き止まりでもなく、終点でもない。

死というのは、肉体を持ってこの世界に仕事をしに来た魂の、一つの中継地点というか、チェックポイントみたいなもの。

この世界に何らかの使命を持ってやってきた魂が、この世界での一つの仕事を終え、古くなった肉体を脱ぎ捨てて、魂の姿に戻る。

そのための卒業の儀式が、肉体の「死」なのだと僕は感じている。

なので、肉体の死は、その魂にとって、一つの達成であり、成し遂げたことなのだと想う。

生命の終わりが一見不本意そうに周囲から見えたとしても、その魂にとって、そのときが、神によって定められたタイミングであり、それが「正しい」ときなのだ。

3歳で亡くなる人もいる。50歳で生命を終える人もいる。100歳の長寿を生きる人もいる。

でも、それぞれのタイミングが、正しいタイミングであり、それは神の領域なのだ。

肉体と感情という不自由な殻から解き放たれた魂は、本当の意味で自由になる。

だから、周囲で見送る僕たちに必要なことは、肉体を離れ旅立とうとする魂に寄り添い、愛し、祝福すること。

この世界に使命をもってやってきた魂が、この世界での仕事を終えて、魂の世界へと戻る。

死とは、荘厳なれど、忌み嫌うべきことではなく、むしろ人生の達成を祝福する儀式だ。

そして、肉体を抜け出した魂は、これからいつも僕たち肉体を持つ生命に寄り添い、僕たちの命を見守ってくれる。

だからこそ、旅立つ人を見守る僕たち肉体を持つ人は、自分たちを責めないことが大切だ。

「救えなかった」「もっとこうすれば良かった」「あのときああしていれば」と、悔やむ想いで自分を責めず。

「関われてありがとう」「一緒に過ごせて良かった」「共に生きてくれたことに感謝」という気持ちで、旅立つ魂と残される肉体を祝福で満たしてあげてほしい。

旅立つ魂を祝福と感謝で満たすこと。

そして、肉体を持つ我々は見送る際に自分たちを責めないこと。

飛び立とうとする魂には、

後悔ではなく感謝を。

罪悪感ではなく祝福を。

捧げて欲しい。

心より。

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