心・心理

観念的なことを「頭」で理解しようとしてはいけない 〜「心」で感じて「肚」に落とすのだ [心]

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世の中には「理屈では説明できないこと」がたくさんある。

というか、むしろ元々は理論とか理性とかいうものは動物界には存在していなくて、人間が後天的に身につけたものに過ぎない。

なのに、どうも近代以降の人間は、理屈・理性ですべてが解決できると、理性を過大評価している傾向が強いように思う。

なんでも理屈、すなわち頭でこねくり回して「正解」を求めるのだ。

でも、それで得られる正解は、思考が作り出した「虚像」に過ぎない。

だから、観念的なことを頭で理解しようとすると、おかしなことになるのだ。

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観念的なことを「頭」で理解しようとしてはいけない 〜「心」で感じて「肚」に落とすのだ [心]

たとえば「幸せになる方法」とか、「お金持ちになる方法」という問いに対して、論理的な唯一無二の正解というものは存在しない。

「この本を読むと誰でも幸せになれます」とか「このセミナーを受講すると大金持ちになれます」というようなものは存在しない。

「幸せ」も「お金持ち」も、観念的な尺度であり、「ここから先は幸せ者です」とか「年収○○円以上の人はお金持ちです」というような、客観的な定義は存在しない。

すごく恵まれた境遇にいるように見える人でも、自分をすごく不幸だと感じている人もいるし、たくさんお金があるように見える人でも、「まだまだ足りない」と渇望感を感じている人だっているだろう。

そして、「幸せ」にしても「お金持ち」にしても、一瞬だけなれば良い、というものではなく、「継続的」に「今後ずっと」幸せな状態が続いてほしい、お金持ちなまま一生を過ごしたい、というものだと僕は定義している。

ということは、生きている一人ひとり、人間の数だけ、「幸せ」の定義は違うし、「お金持ち」だと自分を感じる状態というのも、一人ひとり、全員違う、ということだ。

つまり、これらの問いは、すごく観念的なものなのだ。

言い換えれば、それは、その人の「世界観」である。

観念的なことを「頭」で理解しようとしても、理解することはできない。

偉大な人の本を読んで「凄いな」と思っても、すぐには偉大な人になれないのは、本を読んで頭で理解しただけでは、人生は何も変わらないのだ。

観念的なことは、「心」で感じて「肚」に落ちして、初めて変化が生じる。

偉大な人の本を読んで「凄いな」と感じたなら、その本のどこに自分の心が動かされたのかを感じ取ることが大切だ。

そして、その心の動きの奥にある、自分を突き動かしているモノの正体を感じ取るのだ。

すると、そこに自分が本当にやりたいこと、やるべきことが見えてくる。

それこそが、自分のミッションであり、命の使い方に通じる道なのだ。

ただ、一冊本を読んだからって、突然自分のミッジョンや命の使い方がパッと明確になったりはしない。

ただ、そこに通じる道を感じ取ることができたなら、「そちらに進むのだ」と、「肚」で決めるのだ。

それは、最初は小さな一歩かもしれない。

でも、その小さな一歩が、やがて自分の人生を大きく変え、自らのミッションを生きる人になる、最初のキッカケになる。

最初の一歩は、「ダラダラ残業するのを止めて朝早起きして会社に行こう」という決意かもしれない。

最初の一歩は、「英語を勉強し直して通訳ガイドの資格を取ろう」という決断かもしれない。

最初の一歩は、「ブログを開設して自分の想うことを書き綴ろう」という決心かもしれない。

最初の変化は小さくて、他人は誰も気付かないレベルのものかもしれない。

でも、その小さな決断によって、次に進むべき一歩を踏み出す方向が、90度、あるいは180度変わるのだ。

ならば、その一歩の先に続く道も、進めば進むほど、違う場所にあなたを連れていってくれる。

心で感じて肚で決める。

難しく感じるなら、一言でいえばこういうこと。

「ワクワクすることを感じ取る。頭が色々「不安」とか「無理」とか言ってきても、そのノイズに負けず、「ワクワクすることをやり切るのだ」と、「肚」で決意する」こと。

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