日常

あれから12年

日常
スポンサーリンク

今日は3月11日。東日本大震災から12年ですね。

あの日僕はまだ会社員で退職間近。得意先に挨拶と引き継ぎのため社長と後任マネージャー2人とともに出かけ、オフィスのある市ヶ谷駅に電車が着いた瞬間に大きな揺れが来ました。

工事中だった駅の天井からパネルが落ち高架橋が落ちるかと焦りつつ走って駅から出たのを憶えています。

市ヶ谷駅の外に出ると、遠くから真っ黒な煙が立ち上っているのが見え、どこかで火災が起きているのだと思いました。

駅前に止まっていたタクシーの運転手さんがラジオをつけていて、「震源地は宮城で震度7だ!」と叫んでいました。

その後一旦オフィスに戻って緊急会議を開き、帰宅できる人は帰宅することに。

オフィスのテレビで津波の被害の様子が映し出され、ただならぬ事態が起こっていることなのだと知りました。

僕は自宅まで歩いても25分だったので当時の妻とオフィス前で合流。携帯が通じなかったけどTwitterのDMが使えたので連絡が取れました。

たくさんの人が歩いていて歩道は大混雑でした。

帰宅途中に護国寺の居酒屋に立ち寄って食事。普通に営業していたけど電車が止まって従業員が出勤できず人が足りないと聞きました。

自宅に戻ると食器棚からコーヒーカップが1つ落ちて割れていただけで、それ以外の被害はありませんでした。

いま思うと都心部は停電しなかったのが救いでした。

あれだけ人口が集中している都心で広域の停電が起こっていたら、混乱はあの程度では済まず、もっと大変な事態になっていたでしょう。

その晩はさすがに眠れなかったことを憶えています。

翌日になると地震の被害の大きさが次々と報じられると同時に原発事故の危機も伝えられ、スーパーやコンビニから商品が消え、事態の深刻さを感じました。

近所のスーパーに買い物に行くと、米袋やトイレットペーパーなどを大量に買い溜めした人達とすれ違い、違和感を感じたことを鮮明に憶えています。

震災が起きたのが金曜日の午後で、土日は自宅にいました。

自宅にいるとどうしてもテレビを観続けてしまい、津波や原発事故の情報ばかりを観続けているとメンタルをやられると思い、テレビのプラグを抜いて押し入れに突っ込んでしまいました。

このときをキッカケに我が家はテレビを観なくなり、次の引っ越しのときにテレビ自体を処分してしまいました。

12年間テレビなしの生活です。

僕は3月末で退職・独立予定だったのですが、日本中が大混乱のなか「こんな状態で独立して大丈夫なのか?」と不安が募り、精神的にキツかったことをよく思い出します。

節電のため街の外灯もネオンサインも消えて真っ暗ななか、「こんなに暗い東京は初めてだ」と想いつつ夜自転車で移動していた光景が目に浮かびます。

僕が退職したあとの後任マネージャーが通勤路線が計画停電のためまったく出勤できず、対面での引き継ぎも出来ない状態が続きました。

結局僕は最終出勤日まで災害対策本部長のままで、出勤できない社員も多く、送別会も飲食店が閉まっていて延期となる違例の退職でした。

独立初日はこれからの人生への期待と日本の混乱による不安がごちゃごちゃに入り交じった、複雑な気持ちでした。

あれから12年、僕はいま鎌倉の海街に住んでいるので、津波のリスクは大きいと自覚しています。

日本に住む限り自然災害のリスクは常に認識する必要がありますね。

備えを怠らず、歴史を教訓にして生きることが大切と思います。

タイトルとURLをコピーしました