あなたの温もり 思うこと 不明編


1997年4月3日(木)

Crucified / Army of Lovers

もうどれぐらい、僕はここにこうして倒れているのだろう。

僕は地下道の天井をぼんやりと見つめたままぼんやりと考えた。

昨日の夜はこの地下道の外では雪が降っていたらしい。いや、あれは昨日ではなくて一昨日だったのか。

ピンクのズックを履いた女の子がカレーパンを恵んでくれたのは何日前だったのか。最後に地下道から外に出て歩いたのは確か一週間前、いや、もっと前だったのか。

きっと僕が垂れ流した汚物が地下道全体に悪臭を放つせいなのか、僕の近くまでやってくるとみんな歩を早めて僕を避けるように通り過ぎていく。

今は昼なのか、それとも夜なのか。暑いのか、それとも寒いのか。今自分は何を見ているのか、何を聞いているのか。

人の足が早足で過ぎ去り、また現れる。

眠っているのか、目覚めているのか、断続的に現れるこのコンクリートの天井を見つめつつ、呼吸が楽になっていくのを感じつつ、僕はもう出ないはずの涙を流した。


It's a Fire / Portishead

あの日僕は明らかに浮き足立っていた。いつもの自分ではなかった。

足がふわふわと浮き上がるような感じで、歩いていてカラダが自分のものではないような感じだった。

有頂天、という言葉がまさにピッタリとくるような、最高潮の一瞬に訪れる甘美な思いに酔いしれていた。

約2年半前、僕は上司に呼ばれ、あるプロジェクト専属になるように勧められた。そのプロジェクトが成功すれば会社の利益は爆発的に伸び、自分の功績も大きく評価されるだろうということだった。

上司が僕にくれた時間は1週間。その間に覚悟を決めろと言うことだった。

僕にとっても非常に魅力的シゴトではあったが、代償として当分の間自分のプライベートな時間というものは全くといっていいほどなくなってしまう。

そこそこの給料と評価を会社から受け平凡に生活するか、会社人生のうちの何年間かを死んだ気になって働き、その代償として相応のステータスと報酬を受けるか。

僕は迷った。すでに結婚の決まっている彼女に、そのことを相談した。

彼女は微笑みながら、僕が自分の思うままに進むことを許してくれた。プロジェクトの完遂まで、彼女は僕を待っていてくれると約束してくれ、応援してくれるとも言ってくれた。

翌日、僕は上司にプロジェクトに参加したい旨伝え、上司は「良く言ってくれた」、と僕の両肩をたたきながら大きな声で言った。


Leave Home / The Chemical Brothers

翌週に僕は移動となり、プロジェクト専任となった。予想通り、地獄のような日々が始まった。連日連夜続く企画会議とマーケットリサーチ、さらにリサーチが終了するとすぐに実行プログラムの作成、ジョイント企業との打ち合わせ、現場の指揮と、会社に泊まり込む日々が続いた。ややぽっちゃりしていた体型は1年の間にすっかり肉が落ち、鏡に写る自分の顔を見て驚いたりもした。

ホテル泊りが続く僕に彼女は弁当を差し入れてくれたりカードを送ってくれたり、僕のシゴトのじゃまにならないように、ひっそりと支え続けてくれた。

クライアントのアメリカ本社との交渉が難航し、プロジェクトは予定よりも若干遅れながらも大詰めを迎えていた。


Violaine / Cocteau Twins

ある木曜日の夜に、赤坂のあるホテルでついに総ての契約が結ばれた。アメリカから訪日していたクライアントのC.E.O.と僕の会社の社長が契約書にすべてにサインを終えると堅く握手をかわした。

僕は涙があふれそうになるのを必死でこらえ、すぐに会場を後にした。会社に戻るとすぐに報道機関に対して報道解禁の旨伝え、さらに現場で陣頭指揮にあたる人達に、すべての契約が無事終了したことを伝えた。

その日僕は久しぶりに部屋に彼女を呼び、僕の費やした時間とまもなく立ち上がる巨大プロジェクトの未来に乾杯した。

Serpentskirt / Cocteau Twins

巨大プロジェクトが立ち上がったその日、僕は発足記念パーティの会場にいた。

一緒に闘ってきた仲間やクライアント、プロジェクトへの協力者達が一同に集い、会場は新しいムーブメントへの予兆と現実のものとなった夢が結晶し、異様な興奮状態だった。

僕はいつもより少し酔ったような気がした。シャンパンの未成熟な酔いが頭についてぐらぐらするような感じだったが、元上司が満面の笑みとともにやってきて、「おまえがいなければできなかった」と言ってくれたことで、僕は自分が費やした1年という時間が無駄ではなかったことを初めて実感した。

パーティは、プロジェクトの未来を祝して社長が乾杯し、無事終了した。僕は今回は誰にもはばかることなく、堂々と涙を流した。

Tishbite / Cocteau Twins

僕は会場を出ると、駐車場に止めてあった車に乗り込んだ。

その日は彼女とホテルに泊まる約束をしていた。せっかくの記念日だから、二人で祝いたいという彼女の提案だった。

会場から車でホテルまで20分、僕は若干重い頭のまま、車を出発させた。

静かな雨が降り始めていた。僕はカーステレオのスイッチを入れ、ラジオをつけた。

ラジオからは1年半前に流行っていた、彼女の大好きな曲がかかっていた。

静かな雨の夜、車の流れはまばらで窓越しに静かに水しぶきの音が聞こえてくる。水しぶきの音が音楽と重なり合い、1年半のことが走馬燈のように思い出された。

ふと、途中どこかに開いている花屋を見つけて、彼女に花束を買っていこうと思いついた。

一言目に彼女になんて言おうか、そんなことを考えていると携帯が鳴った。

彼女からだな、そう思い僕はバッグの中の携帯を手探りで引っぱり出そうとしたが、なにかに引っかかってうまく取り出せなかった。僕は右手にハンドルを持ったままほんの一瞬視線を助手席のセカンドバッグの方に落とし、携帯を引っぱり出した。

左手に持った携帯を耳元に持っていこうと視線をあげた瞬間、フロントガラスの目の前にはピンクの傘を差した若い女性の、凍り付くような顔が見えた。

Calfskin Smack / Cocteau Twins

僕が轢いた女性は即死だった。

僕はどこで花束を買うかも一言目に彼女になんて言うかも決めることができないまま、携帯に電話をかけてきたのが誰なのかも知らないまま、逮捕された。

交通刑務所に送られた僕は模範囚として刑期を1年短縮され、3カ月前に出所した。

始めは毎日会いに来た彼女は半年前から一度も顔を出さなくなった。会社の人間は誰も一度も会いにこなかった。

刑務所を出た僕は、あてもなく地下鉄に乗り、会社の前にやってきていた。

会社の前には、あの日と同じようにたくさんの人達が出入りし、あの日の僕と同じように若い、目を輝かせた若者達が脇目も振らずに通り過ぎていく。しばらく呆然と25階建てのビルを見つめていた僕は、なんとなくきまりが悪くなり、もときた道を戻ることにした。

実家に戻ろうかと電話ボックスの前に来たが、親の声を聞くのが怖くて受話器を持つ手が震えた。彼女の電話番号は、もう忘れてしまっていた。

ふらふらと歩いていると公園があった。無性に眠りたくなり、僕はベンチを見つけると吸い寄せられるように歩み寄り、横になると、夢も見ずに、泥のように眠り続けた。

Eperdu / Cocteau Twins

目が覚めると無性に酒が飲みたくなり、近くの酒屋で一升瓶を買った。ベンチに戻ると喉を鳴らして一升瓶が空になるまで酒を飲み続けた。景色が白黒に見え、金属音のような音が断続的に聞こえるような気がして、僕は耳を塞いだまま意識を失った。

金が続く限り、目が覚めると酒を買い、意識を失うまで飲み続ける日々を送った。冬が近づいてきたころには貯金もなくなり、僕は寒さに追われるように地下道に移った。

地下道に移ってからは、酒を飲まなくても断続的に意識を失うようになった。腰がたたないことが多くなり、排泄物で服を汚すことも気にならなくなった。

拾ってきた毛布だけでは寒かったはずなのに、それもあまり気にならなくなってきた。

誰かが捨てていった新聞を寒さ避けに掛けようとしたとき、僕達が立ちあげたプロジェクトのバカでかい広告が新聞を飾っていた。

しばらくその広告を呆然と眺めていると、突然激しい嗚咽が無意識に漏れ、僕はあの事故以来初めて声を出して、地下道中に反響するような大声を上げて泣いた。喉の奥からしゃくり上げるような、抵抗のしようがない筋肉の痙攣にすべてを委ね、僕は長い時間泣き続けた。

泣きつかれて眠ってしまった僕が再び目を覚ますと、ピンクのズックを履いた小さな女の子が、僕の前に、ビニールに入ったままのカレーパンをそっと置くと、逃げるように駆け足で階段を掛け上っていった。

横たわったままカレーパンを見つめる僕は、もう涙を流すこともなかった。


(c) T. Tachibana. All Rights Reserved. 無断転載を禁じます。tachiba@gol.com

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