
2016年4月1日になった。
僕、立花岳志が17年勤務した会社を退職して独立したのが2011年4月1日だった。
あれから5年がたった。
あっという間の5年だったような気もするし、とても長い時間がたったような気もする。
しかし一つだけ言えることがある。
それは、以下の一文だ。
「僕はこの5年間『これこそが自分の人生だ!!』とヒリヒリ体感しながら生き切ってきた」ということだ。
なにをするのも自己責任、誰のせいにもできない環境の中で、好きなことだけして生きてきた。
こんなに自由な人はいない。
こんなに人生を謳歌できている人はいない。
しかも、たくさんの方に応援してもらい、支えてもらいながら、生きている。
こんなにありがたいことはない。
ただのサラリーマンとして、しかも105kgの肥満体でバツイチで、自己肯定感も低く、会社の仕事と暴飲暴食だけを生き甲斐に生きていた僕が、こんな人生をつかむことができたのは、まさにブログのおかげだ。
2008年12月8日に書いた最初の記事。
この記事が僕の人生を大きく変える第一歩だった。
この5年を振り返りつつ、いま想うことを書き綴って見ようと思う。
自由に生きる!無名の肥満体サラリーマンだった立花岳志が ブログだけを武器に独立して今日で5周年の今 想うことを語ろう
「やりたいこと」を封印して「憂さ晴らし」だけしていた「憶病者」の人生
30代の僕は、「やりたいこと」を完全に封印して生きていた。
20代のときにはインターネット・テキスト日記のブームがあったり、小説を書いて新人賞に応募したりと、それなりに「やりたいこと」を持って、可能性を見て生きていたように思う。
しかし、何度か新人賞に落選し、テキスト日記ブームも去るのと入れ替わりで、会社の仕事がすごく忙しくなり、残業また残業という日々になった。
その時期に僕は、会社の仕事が忙しいということを言い訳に、自分の「やりたいことを追いかける」ことを、諦めたのだと思う。
そして僕は会社の仕事をそれなりにこなしつつ、夜と土日は飲んだくれる日々へと突入した。
「やりたいこと」がないから失望もしない。
失望はないけど、ヒリヒリするような生きている実感もない。
深く傷つくこともないけれど、ワクワク・ドキドキすることもない。
そんな生活の中で、僕はぶくぶく太り続け、そして人生の可能性を自ら遠ざけていった。
僕は30代をそんな風に食い潰しつつ、徐々に人生に行き詰まりを感じ、どこかに出口はないかと模索するようになっていった。
仕事にやり甲斐も感じられず。
前妻との関係も悪化して家庭は破綻状態。
実家の借金の返済を肩代わりしたため貯金もなく借金生活。
そして105kgの肥満体は健康診断で「すべての成人病の一歩手前。いつどの病気になってもおかしくない状態」と言われる始末。
地下鉄の駅の階段が苦しくて昇れない。
息が切れてオフィスに向かう坂道を一気に上れない。
「僕はこのままやりたいことが何もできないまま、住んでもいない家の借金を返済して、病気になって死ぬんだな」
僕はそう思った。
体調が非常に悪く、自宅のトイレで立って用を足している最中に意識を失って倒れたりしていた。
「僕の人生こんなはずじゃなかった」
毎晩のように布団でそう呪いのように呟いた。
でも、僕は、この人生からどうやって脱出していいのか、まったく分からなかった。
ブログは僕が唯一見つけられた可能性だった
のっぺりした無感覚な日々が徐々に行き詰まり、失望へと変わった。
そしてその失望が絶望に代わったとき、僕の中から怒りが湧いてきた。
他人に対する怒りではない。
自分に対する怒りだ。
不甲斐ない、情けない、臆病な自分。
やりたいことを封印して、逃げて、先送りして、なかったことにして、できない言い訳ばかりしてきた自分。
そんな自分が本当にイヤになった。
地団駄を踏んで、突き飛ばして、蹴り倒して、馬乗りになって、ぶん殴ってやりたいぐらい、自分に腹が立った。
そして僕は決意した。
「僕はいま人生でやりたいことがまったくできていない。やっていることはやりたいことではなく「憂さ晴らし」だけだ。僕は1日に10分でもいいから、本当に心からやりたいことをやろう」と。
でも、残念ながら、当時の僕は、いったいなにがやりたいのかが、まったく分からなかった。
あまりにも長い時間自分の「好き」「やりたい」をごまかして封印し続けてきてしまったため、アンテナが麻痺していたのだ。
どうしていいかまったく分からないのだ。
そんな中、唯一僕が思い付いたのが、「ブログを開設して本気で書く」ことだった。
無料ブログではなく、自分でサーバを借りてドメインを取って、自分の城をそこに、ありとあらゆることを書こう。
日記ではなく、情報を提供しよう。
僕はそう思った。
そして僕は2008年12月8日、まったく誰にも注目されていない、ただのサラリーマンとして、最初の記事を書いた。
そのとき僕は、まさか自分がこの日からたった2年4ヶ月後に、ブログだけを武器に独立することになるなんて、夢にも思っていなかった。
ただ、僕は猛烈にワクワクしていた。
心から好きなこと、やりたいことをやるなんて、何年ぶりだろう。
きっとこのブログで「なんだか分かんないけど凄いこと」が起こせるんじゃないか。
そんな「根拠のない自信」を僕は心の片隅に感じていた。
誰も注目していない2009年の大切さと決意の2010年
2008年12月8日は、僕がブログをスタートした日でもあるが、もう一つ大きな転機となった日でもあった。
僕はその日に前妻との結婚生活に終止符を打ち、離婚届を役所に出したのだ。
このリセットも、僕が「やりたい」と思っていた大きなことだった。
ただ、この決断はその後1年ぐらいの間、僕に強い罪悪感をもたらした。
「やりたいことをやった代償に自分は罰を受けなければならない」
「取り返しのつかないことをしてしまった」
「自分にはそんな大それたことをする資格はなかった」と、自分を責める日が続いた。
2009年の僕は、ブロガーとしてもまだまったく無名だったが、とにかく毎月90記事を目指してブログを書きまくっていた。
当時の僕にとってブログは、「夢を実現するためのツール」には至っていなかった。
2009年の僕にとっては、ブログは「罪悪感からのリハビリ」であり「新生活に向かうための準備段階」であった。
Twitterを始めて新しい友人がどんどんでき、今の奥さんとの新しい生活が徐々に軌道に乗っていった。
2008年に大きな決断をした後遺症を癒し、再び前を見て進むためのリハビリの準備の1年。
2009年はまさにそんな1年だった。そんな中でもブログのPVは着々と伸びていっていた。
そして2010年に入ると、大きな変化がいくつも訪れるようになった。
ブログとSNSで知り合った友人たちが相次いで本を出版したり、勉強会を立ち上げたりと、「自分ブランド」での活動が本格化し始めた。
そんな中、決定的なできごとがあった。
生まれて始めて、バリバリのプロブロガーの方と少人数で会食する機会を得たのだ。
それまでも、ブログだけで食っている人がいることはもちろん知っていたし、お名前も噂も聞いてはいた。
でも、リアリティがなかった。どこか遠くの話みたいで、自分には関係ないと思っていた。
それが、少人数で食事をして、その方の圧倒的で自由で、しかも豊かな生活、ライフスタイルを聞いてしまった。
頭が興奮で真っ白になった。
手が震えて何も考えられない。
その瞬間から、僕は「自分も絶対にあの生活を手に入れる」と決めた。
それまでは漠然と「人気ブログにしたい」くらいに思っていたものが、「ブログで生活する」に切り替わった瞬間だった。
そして僕は独立に向けた準備をスタートさせた。
それまで無縁だと思っていた高額セミナーを受講したり、メンターに相談したり、すでに独立している人の話を聴きまくった。
そして2010年6月に前職の社長に退職したい旨を伝え、翌年3月末での退職が決まった。
退職が決まった2010年7月から翌年2011年3月末までは、期待と不安が入り混じる中、決意と覚悟を決める時間だったように思う。
独立直後の僕をもう一度見直そう
2011年4月1日に僕は独立した。
2011年4月は、日本は3.11の直後で大混乱している時期だった。
計画停電が続き、余震も多く、原発事故は収束のメドも立たず(今も立っていないが)、世の中は不安なエネルギーに満ちていた。
震災直後はブログのPVも激減し、「こんな状態で大丈夫なのか?」と僕も不安だらけだったが、とにかく決めてしまったからには生き切るしかない、と覚悟を決めての船出だった。
そんな船出だったが、僕は実は失業保険の手続きをせずに独立した。
つまり、失業保険を1円も受け取っていないのだ。
なぜなら、独立した初月から、サラリーマン時代の手取り月給と同じくらいの額を稼げていたからだ。
独立当初、僕はまだブログからの収益が8〜9万円程度しかなく、それだけでは食っていけなかった。
なので、僕は独立前から多角化を進めていた。
もともとビジネスとして「ブログだけ」というのは脆弱で危険と思っていたことあった。
「富裕層向けパーソナルITコンサルタント」「法人向けWebコンサルティング」「請け負いライティング業務」「前職の顧問」などを、ブログと併行して行うことで、当初から売上を確保していたのだ。
この時点では「好きなことだけして食っていく」ことよりも、「当座の稼ぎを得る」ことが大事だった。
独立と同時に書籍出版に向けての準備をスタートさせたが、こちらがなかなか思うように進まなかったこともあり、とにかく稼ぐことを優先させたのだ。
退職金の2/3程度を実家の借金一括返済に使ってしまい、しかも奥さんが音楽療法士になるために大学に通うようになり(つまり稼げない)とても不安な状態だったが、そんなこんなで何とか食えていた。
だが、2011年7月にはブログのPVが100万を越えて収益も上がってきて、他の業務が徐々に負担に変わってきた。
だが、B to Bの業務の方がまだ収益性が圧倒的に高いことは事実だった。
しかし、請負仕事をやっていては、僕が目指していた「圧倒的自由なブロガーとしてのライフスタイル」に永遠に辿り着けない。
そう思った僕は、9月の時点で、ブログ以外の請け負い業務を全部止めてしまった。
そして入れ替わりに、以前からやりたいと思っていたセミナー運営をスタート。
正直9月から翌年の1月くらいまでは赤字続きで退職金の残りも底を突いてしまい、非常にハラハラした。
でも2012年1月には後の「ノマドワーカーという生き方」の出版も決まり、ブログとセミナーの収益も向上し、生活も楽になっていった。
2011年は船出の1年で、とにかく色々と試行錯誤してもがいたが、結果としてすごく経験になったし、僕のフリー生活の原点になった1年だったように思う。
自由に生きることの覚悟と責任
2012年に4冊の本が出て、僕のライフステージに大きな次元上昇が起こった。
2011年にサラリーマンからブロガーになったわけだが、2012年に僕はブロガーから「作家」「著者」になった。
本が出ることによって、セミナーにもたくさんの方が来てくださるようになった。
そして雑誌やテレビの取材を受けたり、地方の講演会に呼ばれたりするようになった。
たくさんのパーティーやイベントに呼ばれるようになり、多くの著名人の方とお会いして知り合う機会を得た。
最初はとにかく激流に押し流されないよう、必死で泳いでいる感じだった。
それが落ち着いてくると、僕の心に変化が生まれ始めた。
それは、「自由に生きることの覚悟と責任」だ。
僕が発信するメッセージを読み、僕の講演を聞き、「よし、自分も人生を変えよう」と動き始める人がどんどん増えてきた。
実際に会社を辞めて独立する人、地方に移住する人、プロブロガーを目指してがんがん書く人などが出てくる。
僕はそれらの人のお手本にならなければならない。
僕は彼ら、彼女らに「タチさんみたいに生きたい」と思ってもらえるような生き方をしなければいけない。
僕はその責任を感じた。
一時期、その責任が重荷になったこともあった。
ブログも書きたくない、セミナーもやりたくないと、逃げたくなったこともあった。
しかし、僕は覚悟を決めた。
僕は好きなことだけして生きていくと、決めたのだ。
そして情報発信をして、多くの人たちに勇気を与えて生きていくと、決めたのだ。
発信者として、そしてライフスタイルの提唱者として、生き続ける。
その覚悟が決まったときに、僕はもう一段の次元上昇のステップを上ったように思う。
覚悟が決まったら、生きることが楽になり、ブログもメルマガもすごく楽しくなった。
もっと自由に、もっと楽しく生き切る決意
独立して5年がたった。
今日からの6年目、僕は「もっと自由に、もっと楽しく生きる」ことだけを目指そうと思っている。
損得で考えず、楽しい、嬉しい、やりたい、ということだけを追求して、しかも豊かに生きていく。
僕はそう決めている。
行きたい場所にどんどん行き、やりたいことをどんどんやって、好き勝手に生きる。
僕のことを慕ってくれている皆さんから、もっともっと憧れてもらえるように。
そしてアンチの人たちには、もっともっと嫉妬してもらえるように(笑)。
さらに僕は自由に、圧倒的に自由に、そして楽しく、さらに豊かに、この人生を生き切りたい。
本、ブログ、メルマガを書き、セミナーやイベントを主催して登壇し、大学でも教える。
一人でも多くの方に僕と奥さんのメッセージが届くよう、影響力をさらに磨き高めていく。
今年は講演をDVDや動画配信という形でも、多くの人に届けられるようにしたい。
旅をしながら多くの人と知り合い語り合い、美味しいものを食べ、行ったことのない場所に行く。
たくさんのガジェットに触れて最新のテクノロジーを体感し、良質のセミナー、研修を受け、良書を読み、自分を高めていく。
睡眠と運動、健康にこだわり、アンチエイジングを徹底的に追求し,健康で美しい身体と心を、外面・内面で実現していく。
そして僕と同じような生き方,ライフスタイルを目指す人たちを指導し、育てる場を作り、成長させていく。
圧倒的に自由に、そして圧倒的に幸せで豊かに、そして圧倒的に多くの人の「便利」「充実」「幸せ」に貢献する。
そんな人生を、僕は生き切ると決めた。
独立6年目、さあ、豊かに楽しく生きていこう。