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38歳にして「憶病者」人生から脱出する千載一遇の大チャンスは 大ピンチの顔をしてやってきた 〜 立花はいかにして「好きなことだけして食っている人」になったのか?歴史を語ろう 第2回

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メルマガ連載「立花はいかにして「好きなことだけして食っている人」になったのか?歴史を語ろう」のブログ転載、第2回です。

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今回は、まったく無名のサラリーマンだった僕が、38歳にして直面したトラブルについてです。

写真は僕が20歳のとき、実家の改築が終わり、完成したばかりの新しいリビングで一家4人が集合している珍しい一枚。ちなみに僕は一番左の白いシャツの方です。

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38歳にして「憶病者」人生から脱出する千載一遇の大チャンスは 大ピンチの顔をしてやってきた 〜 立花はいかにして「好きなことだけして食っている人」になったのか?歴史を語ろう 第2回

さて、38歳までの僕は、まったく無名のサラリーマンで、毎日仕事と憂さ晴らしの暴飲暴食ばかりしていました。

自己肯定感が低く、いつも「人生こんなはずじゃなかった」と思いつつも、会社を辞めて独立する手段も見つからず、食うために働く、という感じで、いやだいやだと思いつつも、毎日会社に行き、勤めを果たしていました。

そんな僕に、じわじわと幾つかの問題が押し寄せてきていました。

一つは実家の借金です。

僕の実家は母方の家で、祖母が昭和48年ごろに土地を購入して建てた3階建てで、場所が東京の西麻布にありました。

西麻布というのは、僕が子どものころには、長屋も空き地もある、ごく普通の住宅地だったのですが、1986年~1992年ごろにかけて日本を襲ったバブル景気がすべてを変えました。

土地の値段が猛烈に上がっているバブル前半の時期に、我が家は土地と家を地上げ屋に売る代わりに、自宅を改築して一部をオフィスにして会社に貸すことにしたのです。

ところが、バブル期というのは、建材も人件費も毎日どんどん値上がりしていく信じられない時代でした。

結局3階建ての一戸建てを改築するだけのために、6,000万円以上の費用がかかる異常事態となりました。

ところが、自宅の改修が終わった直後にバブルが崩壊しました。

6,000万円の借金は、自宅1Fのオフィスの家賃から楽々返済できるはずが、バブル崩壊で地価が暴落し、オフィス賃料も大きく下がりました。

当初の家賃では借り手が見つからなくなり、値下げをしてなんとか借り手を見つけても、より安いオフィスを求めて借り手はどんどん出てしまいます。

店子が入れ替わるたびに値下げをして、ついには毎月の返済額よりも家賃が大幅に安い事態になりましたが、それでも借り手が見つからなくなってしまいました。

そして、ついに借金返済のメドが立たなくなり、仕方なく自宅の土地と建物を売却することになったのです。

ところが、ありえないことですが、西麻布の土地と建物を売ったのに、「改築をしただけの費用」を全額返済できず、1,000万円以上の借金が残ったのです。

バブル期の一番費用が高いときに作った借金だけが額面として固定され、バブル崩壊で価値が激減した土地と建物は価格が暴落し、改築したときの費用が払い切れませんでした。

僕は当時実家を出てアパート暮らしをしていましたが、祖母と母、弟は土地と家をなくして賃貸暮らしになり、しかも家賃と並行して、もう住んでいない家の借金も返済しなければならなくなりました。

祖母、母、そして僕の3代で借金返済をしてきましたが、2007年になり、母がついに「もう返し切れない」とギブアップを宣言しました。

そして僕が残りの借金を全額返済することにしたのです。

これは、僕にとっては大きな災難でしたが、一つ大きな転換ポイントでした。

なぜなら、僕は自分の意志で「僕が代わりに返済する」と、宣言したからです。

それまでの僕は、人生の苦難や困難、それから大きなチャレンジから逃げて、他人のせいにばかりする、憶病者の人生を歩んできました。

しかし、ここで借金返済を自らの意志で引き受けることが、その「憶病者」からの脱出のキッカケになると思ったのです。

自分から進んで苦労を背負うことになったわけですが、これが一つ、大きな人生のスイッチだったことに、後から気づくことになります。

続く。

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